FF7/8/10で設定やシナリオを手がけた野島一成氏が11月28日、X上で自身の主人公観について語りました。「ドラゴンクエスト育ちで、主人公は喋らないという刷り込みがあった」と振り返り、ゲーム表現の変化をきっかけに「喋ってもいい」と考えを改めた経緯を明かしています。
堀井雄二氏のFF観に触れ、自身の経験を語る
堀井雄二氏は「ファイナルファンタジーの主人公は、たくさん喋りますよね。それに対してドラゴンクエストが目指すのは、プレイヤー自身が主人公になるという体験なんです」と語っていました。これを受けて野島氏は、自身もDQ的価値観を持っていたことを明かしました。FFの「喋る主人公」を書いてきた野島氏が、その価値観からどう変化したかを語った形です。
野島氏の発言は、堀井氏がGame Informerインタビューで語った「FFの主人公はよく喋る」「DQはプレイヤー自身が主人公になる体験」という発言を紹介した当サイトのポストを引用する形で行われました。海外メディアGamesRadar+も、堀井雄二氏の発言と野島一成氏のリアクションをまとめて報じています。
個人的に。7、8、10の設定とかシナリオとかやらせてもらったんだけど根がドラクエ育ちなもので主人公は喋らない、プレイヤーの器であるべきみたいな刷り込みがあった。でもキャラクターのモーションが欠かせない時代になっていた。プレイヤーの操作によらないアクションもキャラクターの個性、主張と考… https://t.co/XQYkkZiN0G
— K.Nojima (@sgwr1) November 28, 2025
「プレイヤーの器であるべき」という刷り込み
野島氏は「根がドラクエ育ちなもので主人公は喋らない、プレイヤーの器であるべきみたいな刷り込みがあった」と振り返りました。ドラクエシリーズで育った世代として、主人公は自己投影の対象であり、勝手に喋るべきではないという価値観が自然に形成されていたといいます。
しかし「キャラクターのモーションが欠かせない時代になっていた」と野島氏は続けます。プレイヤーが操作していない場面でもキャラクターが動き、表情を見せるようになったことで、野島氏はこれを「キャラクターの個性、主張」と捉え直しました。「じゃ、喋ってもいいか、喋らないことだけに拘っても仕方がない」という発想転換に至ったといいます。
3人の主人公に見る「脱却」の軌跡
野島氏は自身が手がけた主人公たちを振り返り、「無口風なのにまあまあ喋るがその話が本当かどうかわからない奴」「無口だが心の中でいっぱい喋る奴」「やっと、素直に喋る奴にたどり着いた」と表現しました。この3つの表現は、FF7のクラウド、FF8のスコール、FF10のティーダの特徴とそれぞれ重なると考えられます。
FF7のクラウドは、元ソルジャーを自称しながら、その記憶や過去の真実性が物語の大きな謎として扱われるキャラクターです。「話が本当かどうかわからない」という表現は、この記憶混濁の設定を指していると考えられます。
FF8のスコールは、他者との関わりを避ける寡黙なキャラクターですが、プレイヤーにだけ見える内面の独白が非常に多いのが特徴でした。「心の中でいっぱい喋る」という表現は、このFF8特有の演出手法と重なります。
そしてFF10のティーダは、感情を率直に表現する明るい性格の持ち主です。シリーズ初のフルボイス実装と相まって、文字通り「喋る主人公」が実現しました。野島氏が「やっと」という言葉を使ったことからは、FF7、FF8を経て主人公像の変化に一つの区切りを感じていたことがうかがえます。フルボイスという技術的な到達点と、野島氏自身の「刷り込み」からの脱却が重なった瞬間だったのかもしれません。
野島氏はポストの最後を「なので、嬉しい」と締めくくりました。堀井氏の発言に触れ、自身の制作経験を振り返る中での率直な感想でしょう。





