『デッド オア アライブ』や『NINJA GAIDEN』シリーズの生みの親として知られる伝説的なゲームクリエイター、板垣伴信氏が亡くなったことが2025年10月16日に明らかになりました。享年58歳でした。この突然の訃報に世界中のファンが悲しみに暮れる中、故人を深く知る一人の人物が、これまで語られなかった二人の絆の物語を明かしました。長年のライバルであった『鉄拳』シリーズプロデューサーの原田勝弘氏です。本稿では、板垣氏の偉大な功績を振り返るとともに、原田氏が追悼の意を込めて綴った「戦友」との知られざる物語をご紹介します。
Facebookに託された「遺す言葉」
板垣氏の逝去が明らかになったのは、生前に彼が用意していたとされるFacebookへの投稿がきっかけでした。そのメッセージは「私の命の灯は、いよいよ尽きようとしている。この文章が投稿されたということは、遂にその時が来たということだ。私はもうこの世にはいない」という言葉で始まります。
自身の人生を「戦いの連続だった。勝ち続けた」と力強く振り返り、「自分の信念に従い、戦い抜いたと自負している。悔いは無い」と、その生き様に一切の後悔がないことを綴っています。一方で、ファンに対しては「新作を届けることができなくて申し訳ない気持ちでいっぱいだ。ごめん」と、心残りであった胸の内を正直に明かしました。この最後のメッセージは、彼の生き様そのものを表すかのように、潔く、そしてファンへの深い愛情に満ちたものでした。
Team NINJAを率いたカリスマの功績
板垣伴信氏は1992年にテクモ(現コーエーテクモゲームス)に入社後、1996年に3D対戦格闘ゲーム『デッド オア アライブ』を世に送り出し、一躍トップクリエイターの仲間入りを果たしました。彼が率いた開発チーム「Team NINJA」は、美麗なグラフィックスと爽快なアクションで世界中のファンを魅了します。
特に2004年にXbox向けに発売された『NINJA GAIDEN』は、クラシックなシリーズを見事に現代に蘇らせた傑作として、今なおアクションゲームの金字塔と評価されています。常にサングラスをかけ、歯に衣着せぬ発言でメディアを賑わせる彼の姿は、まさにゲーム業界のロックスターでした。その圧倒的なカリスマ性と、妥協を許さないクリエイティブ魂は、数多くのゲームクリエイターに大きな影響を与え続けています。
独立、そして新たな挑戦へ
2008年、板垣氏はテクモを退社し、新たな道を歩み始めます。この退社は未払いボーナスを巡る訴訟に発展するなど、決して穏やかなものではありませんでした。その後、Team NINJAの元メンバーらと共にヴァルハラゲームスタジオを設立し、2015年にアクションゲーム『デビルズサード』をリリースします。
商業的な成功には恵まれなかったものの、彼の挑戦は止まりませんでした。2021年には「板垣ゲームズ」を設立し、再びゲーム開発の最前線に戻ることを高らかに宣言。ファンは彼の新作を心待ちにしていましたが、その思いが叶うことはありませんでした。しかし、最後までゲーム制作への情熱を失わなかった彼の姿勢は、多くの人々の記憶に刻まれることでしょう。
「お前は俺の戦友だった」―ライバル原田勝弘氏が明かした確執と友情の真実
板垣氏の訃報に際し、数ある追悼の声の中でも特に多くの人々の心を打ったのが、『鉄拳』シリーズプロデューサーである原田勝弘氏の投稿でした。原田氏は、かつて海外のファンに向けて英語で綴った二人の関係性についての長文を、この機会に改めて日本語で公開。そこに記されていたのは、世間の知る確執の裏で紡がれていた、深い尊敬と友情の物語でした。
原田氏が明かしたところによると、二人の関係は90年代後半、板垣氏がメディア戦略として意図的に『鉄拳』を名指しで批判することから始まりました。板垣氏が攻撃を仕掛け、原田氏は会社の方針で沈黙を守るという「不均衡な関係」は実に10年間も続いたといいます。
しかし、物語は2008年に劇的な転換を迎えます。テクモを退社した板垣氏の方から原田氏に連絡があり、食事の席でこう切り出したのです。「原田、お前は俺の戦友だった」。そして、これまでの攻撃的な発言は『デッド オア アライブ』の知名度を上げるための戦略であり、『鉄拳』には尊敬の念しかなかったことを告白。「すまなかった」と謝罪したといいます。この言葉で、長年の確執は雪解けを迎えました。
和解の後、二人は互いの戦略を語り合いました。板垣氏は、鉄拳チームのメンバー構成からスキルまで徹底的に分析した「勢力分析チャート」まで作成し、競合研究を重ねていたことを明かします。一方の原田氏は、アーケード市場の衰退を予見し、世界中のコミュニティイベントを自ら支援して回るという地道な活動でシリーズを支えてきた戦略を語りました。互いの知られざる戦い方に驚き、認め合った二人は、ライバルから真の「戦友」となったのです。
原田氏は、「信じられない事ですが、私の大学の先輩でもありゲーム開発者としてのライバルでもあったItagaki-sanがお亡くなりになった」と深い悲しみを綴り、板垣氏との最後のやりとりが「近く騒ぎましょ(飲みましょう)」というメッセージだったことを明かしました。あまりにも早すぎる別れに、「板垣さん、ちょっと早すぎます」と、その無念さを滲ませます。業界を共に牽引したライバルからの言葉は、板垣伴信というクリエイターの情熱と、その裏にあった人間的な魅力を何よりも雄弁に物語っています。
最後に、板垣伴信氏の偉大な功績に敬意を表し、心よりご冥福をお祈りいたします。




