『沙耶の唄』は「スコップにもナイフにもなる」。虚淵玄氏が語る“壊すものと壊されるもの”の描き方

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声優の小岩井ことりさんは、『沙耶の唄』を「人生を救ってくれたゲーム」と語っている。

2003年12月26日にニトロプラス(現ニトロオリジン)より発売された同作は、事故をきっかけに世界が醜悪な肉塊に見えるようになった青年と、その世界で唯一美少女として映る謎の少女・沙耶との交流を描くPCゲームだ。グロテスクな表現に満ちた作品が、なぜ小岩井さんにとって救いになったのか。

電ファミニコゲーマーに掲載された虚淵玄氏との対談で、小岩井さんは、本作によって「自分が見ている世界と、人が見ている世界は違うのかもしれない」と気づき、「私は孤独ではないかもしれない」と思えたと語っている。一方の虚淵氏は、その救いを自分が与えたものとしては語らない。救いは受け手の中に埋まっているものであり、作品はそれを掘り起こす「スコップ」なのだと説明する。

さらに虚淵氏は、同じ作品は「スコップにもなるし、ナイフにもなる」とも語っている。小岩井さんが見た救いは、作り手が一方的に与えたものではなく、受け手の中にあるものを作品が掘り起こしたものとして語られる。対談はそこから、「いいスコップを作れた」「壊すものも壊されるものも、ちゃんと等価に描く」「作りながら嘘をつかない」という創作論へ進んでいく。

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「私が見ている青色は、他の人にとっての青色じゃないのかもしれない」

小岩井さんは、子どものころから周囲との見え方のズレを感じていたという。人の顔を認識するのがあまり得意ではなく、家族の顔もパッとわからないことがある。「私が見ている青色は、他の人にとっての青色じゃないのかもしれない」。そんなことを考えながら育った。周囲にうまく馴染めず、どうすればみんなの中に混ざれるのかわからず、ひとりで悩むことが多かったとも語っている。

『沙耶の唄』の主人公が体験する「自分だけ世界が違って見える」という設定は、小岩井さんにとって遠い話ではなかった。作中の行動そのものには共感できない。だが、そこに至るまでの「世界の見えかた」には共感できた。そして、この作品に触れたことで「自分が見ている世界と、人が見ている世界は違うのかもしれない」と受け止められたという。

小岩井さんはさらにこう続けている。「こんなことを考えている人がいるなら、私は孤独ではないかもしれない」。肉塊だらけのグロテスクな世界を描いたゲームが、ひとりの人間にそう思わせた。

虚淵玄氏は、救いを作り手が与えるものとして語らなかった

小岩井さんの告白を受けても、虚淵氏はその救いを自分が与えたものとしては語らない。

虚淵氏の説明はこうだ。人の救いというのは、その人の中に埋まっているもの。作品がやっているのは、それを「どんなスコップで掘り起こすか」ということにすぎない。そして同じ作品であっても、受け手によって世の中が嫌いになることもあれば、救いになることもある。作品が何をもたらすかは、完全に受け手しだいだと。

つまり『沙耶の唄』が小岩井さんにとって救いだったとしても、それは作者が外から与えたものとして整理されてはいない。小岩井さんの中に埋まっていたものを、『沙耶の唄』という作品が掘り起こしたと、虚淵氏は語っている。

「スコップにもナイフにもなる」作品としての『沙耶の唄』

虚淵氏はそこで話を終えない。同じ作品であっても、受け手によって世の中が嫌いになることもあれば、救いになることもあると語る。そして『沙耶の唄』について、「スコップにもなるし、ナイフにもなりますから」と言う。

作品は、誰かの中に埋まっているものを掘り起こす道具にもなれば、誰かを傷つける刃にもなりうる。同じ道具が、掘り起こしもすれば、傷つけもする。だからこそ、小岩井さんにとっては救いだったとしても、それをそのまま一般化して語ることはできない。

この両義性は、対談の細部にもにじんでいる。小岩井さんは、病院で迎えるエンディングにおける沙耶の去り際を印象的な場面として挙げ、「こんなにかわいい肉塊は人類史上存在しない」と表現している。かわいいと肉塊が同じ文の中に並ぶ。その感触は、『沙耶の唄』のねじれをよく表している。

また虚淵氏は、沙耶について「タンポポが怖い」という気持ちから書いたと語っている。地上では可憐で愛らしい一方、地中では巨大な根を張る。その二面性は、沙耶という存在の可憐さと恐ろしさにも重なる。

「いいスコップを作れた」から、「壊すものも壊されるものも等価に描く」へ

虚淵氏は、『沙耶の唄』について「いいスコップを作れた」と語っている。ちゃんと固く鋭く作っておけば、誰かが役に立ててくれる。そう振り返ったうえで、芯の通ったものを作っておいてよかったという満足感があるとも述べている。

その芯について、虚淵氏は「壊すものも壊されるものも、ちゃんと等価に描く」と説明した。侵略される側には悲劇がある。一方で、侵略する側もまた悲劇の結果として侵略に走っている。どちらかだけを極端な被害者にせず、被害者も加害者になり得るというバランス感覚を意識して作ったという。

さらに、インタビュアーから「固くて鋭いスコップ」のようなコンセプトを軸に持つことについて問われた場面では、虚淵氏は「作りながら嘘をつかない」と答えている。

出典

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